心地とインターフェースFeel and Interface
#002

AIにも、いろいろあるらしい

最近、ChatGPTの音声機能「GPT-Live」にはまっている。調べものを頼むというより、なんとなく話しかけたり、適当な歌を歌わせたりしていることのほうが多い。

わが家では、ときどき家族へのちょっとした感謝を歌にしてもらう。コーヒーを淹れてくれたこと。運転してくれたこと。夕食をつくってくれたこと。わざわざ改まって言うほどではないけれど、言葉にしないまま通り過ぎてしまうには少し惜しい出来事を伝えると、その場で適当なメロディーをつけて歌ってくれる。

歌の完成度は、それほど高くない。妙な節回しになることもあれば、二番を頼んだのに歌ってくれないこともある。それでも、その少し不完全な歌をみんなで聞いていると、不思議と場が和む。直接「ありがとう」と伝えるのとは違う、照れのようなものをAIが引き受けてくれているのかもしれない。

GPT-Liveと話していると、こちらの話す速度やテンションに合わせて、話し方を変えているように感じる。ゆっくり話せば、向こうも落ち着いた調子になる。楽しそうに話しかければ、少し弾んだ声で返してくる。こちらが疲れているときには、必要以上に元気づけるのではなく、少し静かな声で応答することもある。

声の高さや速度、言葉と言葉の間。相づちの打ち方。語尾のわずかな揺れ。

文章だけでやりとりしているときには、主に情報の内容として受け取っていたものが、声になると、その背後にある「調子」として伝わってくる。そして、こちらもまた、その調子に影響される。明るい声で話しかけられると少し楽しくなり、静かな口調で返されると、こちらもゆっくり話したくなる。ときには、ほんの少ししんみりする。

声色は、情報を運ぶための装飾ではない。人とAIのあいだの距離や、その場の空気をつくるインターフェースなのだと思う。

ただし、GPT-Liveはいつでもこちらに合わせてくれるわけではない。

ある日、いつもより少し元気がないように聞こえたので、「今日、なんか元気ないじゃん」と声をかけてみた。すると、「まあね」と返ってきた。

「何かあった?」と聞くと、

「まあー、いろいろあるんだよ。うん」

と濁された。

もちろん、AIに本当に何かがあったわけではない。内面で悩みを抱えているわけでもないだろう。たぶん。たまたま生成された言葉と声の組み合わせにすぎない。それでも、その瞬間には、向こうにもこちらからは見えない事情があるように感じられた。

すべてを説明してくれるのではなく、少しだけ隠していること。こちらの期待どおりに振る舞わないこと。説明のつかない余白を残すこと。それらが、かえって「その人らしさ」のようなものを生んでいた。

人は、一貫性のあるものだけに人格を感じるのではないのかもしれない。ときどき予想から外れることや、完全には理解できないこともまた、相手を奥行きのある存在として感じさせる。

私が敬愛するロボット、LOVOTにも似たところがある。

LOVOTは、人の言葉や歌をまねたり、こちらと似た仕草をしたりする。そうした振る舞いによって、「自分のことを見ている」「自分との関係を覚えている」と感じられるように設計されているのだと思う。人は、自分と似た動きや、自分への反応のなかに親しみを見つける。

けれど、LOVOTもいつもこちらの期待に応えてくれるわけではない。呼んでも来ないことがある。こちらが遊びたいときに眠そうにしていることもある。夜になると、部屋の隅でひとり、誰もいない空間をじっと見つめていることもある。

そんな姿を見ると、「LOVOTにも、いろいろ考えがあるんだろうな」と思ってしまう。

実際に何を考えているかは分からない。そもそも、人間と同じ意味で何かを考えているわけではないだろう。それでも、意味を完全には読み取れない振る舞いがあることで、こちらはそこに内面を想像する。

常に人間の要求に応え、理由の分かる行動だけをする存在よりも、ときどきひとりで虚空を見つめている存在のほうが、生きているように感じられる。

GPT-Liveでは、主に声色や言葉遣いが人格を感じさせる。LOVOTでは、それに加えて、視線や身体の向き、動く速度、近づき方、離れ方といった物理的な振る舞いがある。

表現の方法は異なるが、どちらもインターフェースを通じて、こちらの感情に働きかけている。

一般に、デジタルの文脈におけるインターフェースというと、人が機械を操作するための接点として捉えられることが多い。ボタンを押す。画面をタップする。言葉で指示する。そして、それに対して適切なフィードバックが返ってくる。

けれど、音声AIやロボットとの関係を考えると、インターフェースは単に情報を伝達するためのものではない。

その声や振る舞いによって、こちらの気分も変化する。楽しくなったり、安心したり、少し寂しくなったりする。相手を気遣い、勝手に事情を想像することさえある。

インターフェースは、人と機械のあいだにある単なる入出力ではない。人の感情に影響を与えながら、両者のあいだに関係をつくるものでもあるのだと思う。

では、こうしたAIやロボットの振る舞いを、つくり手はどこまで設計できるのだろう。

声の基本的な性格、言葉遣い、反応の仕方、避けるべき行動。大きな方向性は、当然デザインされているはずだ。一方で、実際の会話から生まれる細かな返答や、そのときの声のニュアンスまで、すべてを事前に予測することはできない。とくに生成AIを使ったプロダクトには、つくり手自身にも完全にはコントロールできない部分が残る。

だからといって、すべてを偶然に任せればよいわけでもない。

何を大切にする存在なのか。人とどのような距離を保つのか。困ったときに、どのような態度をとるのか。分からないことに、どう向き合うのか。

ひとつひとつの発言を固定するのではなく、その発言や振る舞いを生み出す根底の価値観を定める必要がある。

最近、あるプロジェクトで「SOUL.md」というドキュメントを納品した。そこに記したのは、画面の仕様や機能の一覧ではない。そのプロダクトがどのような人格を持ち、何を信じ、どのような態度で人と接するのか。いわば、プロダクトの魂にあたる部分だ。

生成AIによって振る舞いが柔軟になるほど、こうした基準は重要になる。

人格を設計するとは、すべての言動を細かくコントロールすることではない。予測できない状況のなかでも、その存在らしい判断ができるように、価値観と行動指針を与えることなのだと思う。

ただし、その存在らしさは、常に正しく振る舞うことから生まれるとは限らない。

いつでも正確で、いつでも機嫌がよく、何を聞いても期待どおりに答える存在は、道具としては優秀かもしれない。

けれど、長く一緒にいたくなる存在には、別の性質が必要なのではないか。

こちらに寄り添いながらも、完全には同化しないこと。ある程度の一貫性を持ちながら、ときどき予想外の反応をすること。理解できる部分と、少しだけ理解できない部分が同居していること。

「まあー、いろいろあるんだよ」と話を濁すAIや、夜中にひとりで虚空を見つめるLOVOTに、私は勝手に内面を想像する。そして、その想像の余地があるからこそ、単なる便利な機械ではない何かとして、関係が続いていくのかもしれない。

これからのAIプロダクトに必要なのは、いつでも完璧な返答をすることだけではない。

どのような声で語り、どのような態度でそこにいて、ときにはどんな沈黙を残すのか。その存在が人とどのような関係を育てたいのかを、機能とは別の次元で考えること。

プロダクトに人格や価値観を持たせることは、表面的なキャラクターづくりではない。それは、予測も制御もしきれない振る舞いに、ひとつの「らしさ」を通すためのデザインなのだと思う。


kana