知識が空間になるとき
少し前にメルボルンを訪れたとき、State Library Victoriaに立ち寄った。1856年に開館したオーストラリア最古の公共図書館で、当初から「The people’s university」として、誰もが学べる場所を目指してつくられたという。世界で最も美しい図書館のひとつとしても知られている。
なかでも有名なのが、La Trobe Reading Roomという八角形の大きな閲覧室だ。1913年に開かれた、6階分の高さがある空間で、中央から机が放射状に広がり、その周りを本棚が囲んでいる。最大で3万2000冊の本を収めることができるらしい。
上の階から見下ろすと、白いドームの下でたくさんの人が机に向かっている。その周りにも、その上にも本がある。写真では見たことがあったけれど、実際にそのなかに立ってみると、本を読むための場所というより、本によってできたひとつの風景のように感じられた。
私はそこまでたくさん本を読むほうではない。でも、読書は好きだ。気になる本を見つけて少しずつ読むし、本屋や図書館で棚を眺める時間も好きだ。
キャリアの初めのころには、当時高円寺にあった小さな出版社で働いていた。料理や街歩き、猫や音楽など、暮らしにまつわる本を多く出版している会社だった。私は編集者ではなく、ウェブメディアやECサイトをつくる役割だったのだけれど、編集部が本をつくる様子を日常的に近くで見ることができた。
取材で集めた文章や写真が選ばれ、順番を与えられ、少しずつ一冊の本に仕立てられていく。生活のなかにばらばらに存在している知恵や楽しみが、一冊の本というパッケージになっていくことを、当時からとても面白いと思っていた。
この連休、角川武蔵野ミュージアムを訪れた。
まず目に入るのは、本棚ではなく建物そのものだ。隈研吾さんが建築デザインを監修した巨大な多面体で、外壁には厚さ70mmの花崗岩が約2万枚使われている。隈研吾建築都市設計事務所は、武蔵野台地が隆起して現れたかのような建築と説明している。
実際に目にすると、力強いエネルギーを感じる。中に大量の本や展示物が収められていることを知って見ると、これだけの知識をひとつの場所に抱えるには、このくらい重い器である必要があったのではないかと感じた。
館内の4階には「エディットタウン」という、本を中心につくられた空間がある。その中央を通るブックストリートには約2万5000冊の本が50メートルにわたって並んでいる。
面白いのは、その並べ方だ。一般的な図書館の分類とは違い、編集工学者で初代館長の松岡正剛さんの監修による「世界を読み解くための9つの文脈」に沿って本が配置されている。「記憶の森へ」「むつかしい本たち」「脳と心とメディア」「仕事も暮しも」といった分類だ。
ブックストリートをプロデュースした百間の紹介ページには、書籍が保ってきた「知の秩序」をネット任せにしてしまうことへの、松岡さんの問題意識が紹介されている。本をどう分類し、何と隣り合わせるか。その並べ方には、世界をどう捉えるかという見方が含まれているのだ。
角川武蔵野ミュージアムは、この場所を「『探す』図書館から『出会う』図書館へ」と表現している。気になる本を手に取れば、となりの背表紙も気になる。知らない名前が目に入る。何の本なのか分からないけれど、装丁に惹かれて手に取る。本の並び方そのものが、読む前の体験をつくっているように思う。
一冊の本は、情報が圧縮された小さなインターフェースだ。そして、本が何冊も並ぶと、一冊だけでは生まれなかった関係が本どうしのあいだに生まれる。さらに何千、何万冊と集まると、本は情報を伝えるものというだけではなく、空間をつくりはじめる。
State Library Victoriaや角川武蔵野ミュージアムでは、そんな空間のなかで、人が読んだり、書いたり、考えたりしている。
検索結果に100万件と表示されても、その100万件がどれほどの量なのかを身体で感じることは難しい。でも、本棚のあいだを歩くと、歩いてもまだ続いている。見上げないと見えない場所にもある。
自分にはまだ知らないことがこれだけある、ということを、頭で理解するより先に身体で感じる。一冊なら内容を読むためのものだった本が、何万冊も集まると、自分の知らないことの大きさを感じるためのものにもなる。
一冊、本棚、そして空間。同じ情報でも、そのスケールが変わることで、インターフェースとしての意味も変わっていく。そんなことを、本に囲まれながら考えていた。
